Nicotto Town ニコッとタウン

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時の卵 ②

 久しぶりにあの時の夢を見た。きみの夢を見た日は声が出なくなる。
 汚物にまみれて気を失った僕は、病院のベッドで目を覚まし、きみの死を知らされた。僕は右脚骨折と右腕の打撲で済んだが、退院する日まで喋ることができなかった。一度きみの両親が見舞いに来てきみを返せと言った時も、そしてすぐ「すまない、君のせいじゃないのに」と目を伏せた時も、口を開くことすらできなかった。
 右カーブの向こうから曲がりきれなかった対向車が目の前に飛び出してきた。咄嗟にハンドルをきったが、きみを振り落としてしまった。そこへ対向車が突っ込んだのだ…と後で聞いた。その瞬間のことを僕は覚えていない。事故現場に耳だけ残して、僕は居なかったのか。
 声を失っている間、外に出られない同じ言葉がいつも僕の中で渦を巻いていた。
 なぜ、僕だけがここに居るのだろう。
 なぜ、きみではなく僕なのだろう。
 それは重く、僕の動きを鈍くした。眠りに落ちる寸前、全身を地面に埋め込まれるように感じながら僕が生きているということが不思議でならなかった。これは死者の夢なのかもしれないと思ったりもしたが、目が覚めると周囲の様々な物質がひどく現実的で(しかもそれは本当に現実で)僕を打ちのめした。
 退院の日、彼が車を出してくれた。ぼんやりしている僕の代わりにてきぱきと荷物をまとめた。ベッドサイドのひきだしから、何気なく渡されたそれは、腕時計だった。いつも右腕にはめていたので、ガラスは罅割れ、針は曲がって動かなくなっていた。ひきだしを開けることも思いつかなかった僕が初めて見る事故の跡だった。息が、と思うとまもなく真赤な手のひらで目隠しされた。
 シャツの胸が、膝が、生温かいもので濡れた。彼は驚いて背中をさすりながら、「ごめん」とひとこと言った。思いがけない言葉に僕は「違う」と答えた。やっと出た僕の声と、意味の通じない答えに彼は「え?」と困惑した。
 僕は答えずにはいられなかったのだ。
 違う、と言わずにはいられなかった。それは彼の「ごめん」に対してでもあったし、ずっと問い続けてきた僕に対して、何にせよ答えは必要だったのだ。



 課題の提出日が迫っていた。キャンバスを部屋へ持ち帰ってもう五日過ぎている。いくつかの習作はできているが、真白のキャンバスはまだ包みも解かれないままでいる。
 スケッチブックを塗り潰すように描き込んだり、紙をくるくると回してあれこれ構図を思案する。コーヒーをいれようと台所に立ち、コーヒーがないことに気づく。今日は三回、同じことに気がついている。
 電話のベルがやけに大きく響いた。しばらく鉛筆のさらさらという音しか聞いていなかったからだ。
「もしもし、俺。今から行くから」
 こちらの都合も訊かずに彼は言った。僕の方も断る気はなかった。彼は強引さをタイミングを計って使う男だ。
「コーヒーと煙草。あと消しゴム」
「OK」
 程なくして彼がやってきた。「雪降るってよ、雪」と言いながらコンビニの袋を床に置くと冷蔵庫を開けて、「うわあ」と呻いた。冷蔵庫の中が明るいのは、白いビニール袋で一杯だったからだ。
「何食ってるんだよ」
「何だったかな」
 彼は袋を全部出して中身の確認をして、これはよし、とか、勿体ない、とかぶつぶつ言っていた。ふいに大声で呼ばれた。
「あるじゃないか、消しゴム!」
と、投げて寄越した。両手でキャッチした消しゴムは冷たく、汗ばんだ手のひらに心地好かった。僕が笑うと、彼は「ばーか」と笑い返した。
 鍋にたっぷりの水を張って火にかけると、海苔とシソを僕に渡して、彼は明太子を取り出した。
「また明太子スパゲッティー?」
「俺はこれとタラコスパしか作れないんだ」
「同じだろ」
 僕は傍らの椅子に腰掛け、狭いテーブルに皿を置いて海苔を鋏で細く切った。鍋の湯が沸騰すると、彼は半分に折った麺を鍋に放り込んで「今何時?」と訊いた。
「時計見ててよ。今から十一分」
「わからない」
「何で」
「時計がない」
 目覚ましはタイマーで毎朝テレビがつくし、時間もテレビの画面に出ている。夜には時計など必要ない。かつてこの部屋にあった時計と名のつくものは、腕時計と砂時計、それも壊れてしまった。それでも不自由はない。
 彼は僕のカセットラックから適当にテープを取り出してデッキに入れた。フェアグラウンド・アトラクションが流れ出す。「三曲くらいだな」と彼は鍋の中を菜箸で掻き混ぜた。
 久しぶりに食事がおいしかった。今度は僕がコーヒーをいれた。その間、彼は本棚から何冊かの本を抜き出してはまた戻していた。コーヒーを飲みながら、キャンバスの包みがまだ解いていないことや、この前買ったCDのことなどを静かに話した。コーヒーがまだ冷めないうちに彼はカップを空にして「今日はこの本を借りに来たんだ」と立ち上がり一冊を手にした。
「雪が降る前に帰るよ」
「ああ」
 戸口で彼を見送りながら、ありがとうとはやはり言わないことにした。そのために彼は本を借りてゆくのだ。



 絵具の匂いが部屋にこもらないよう窓を細く開けていた。そこから時折雪が吹き込んでくる。傍らの紅茶もすぐに冷たくなったが、そんなことは気にならなかった。熱が高すぎて体が軽く感じられる時と同じ感覚だ。
 何をしてもどんなことがあっても、結局僕の行き着く先は、描くというひとつの作業に帰るのだった。この数箇月には辿り着けなかった心地好さに支配されて、ただ欲しい色を求めて絵具を混ぜ続けた。白い画面が徐々に絵具に埋められていくのと、それとは逆に外の景色が白い雪に消し去られていくのが、時間の経過を示していた。けれども僕にはそれさえ作業に組み込まれた一部に過ぎない。すべてが僕の中にあるような高揚感、何もかもを忘れて絵に没頭することの充足感。
 (違う)
 なぜかそう思って筆を置いた。
 窓の向こうで雪がはらはらと落ちている。僕は立ち上がり、コートを手にして部屋を後にした。傘を忘れたことに気づいたが、取りに戻るのが面倒だった。タイヤの跡に沿ってゆっくりと歩き出す。
 たった今まで満ち足りていた心地が冷えてゆく。両手をポケットに入れて俯いた。
 誰も責めてはくれない。楽しくさえ感じられた時間を、申し訳なく思った。
 僕は、きみを、忘れてしまうのだろうか。
 考えてみるのも怖かった。習慣のまま乗り込んだ地下鉄の暖かなシートで、僕はずっと目を閉じていた。

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