時の卵 ③
- カテゴリ:自作小説
- 2026/04/16 08:21:33
地上から吹き込む雪が駅の階段を濡らしていた。踊場から見上げると入口の蛍光灯が眩しく、夕闇さえ淡く滲んでいた。冷たい空気が耳を打つ。雪は運河の波間に、タイルの舗道に、結晶模様を刻むかのように落ち続けて誰の眼にも映らないまま消えてゆくのだった。
僕を追い越してゆく車の尾燈の赤い眼も、すれちがう男の傘の下の眼も僕には無関心だったし、俯いて歩く僕もまた同じだった。ただひとり、きみが責めてくれるのならいいのにと頭の後ろの遠くで思っていた。
それで意味もなく扉を叩いた。
「はい」と返事があって、あらためて窓が明るいのに気がついた。自分の間抜けさにノックした右手を下ろすことも忘れてきょろきょろとした。扉を開けたのは、丸顔に大きな丸い目の男で、少年という風情の顔に伸びかけた髭がアンバランスで愛嬌があった。
「すみません、間違えました」
そう言って頭を下げると、彼は「もしかして、前に住んでいた方じゃありませんか」と言った。
「いいえ」
「じゃあ、前に住んでいた方のお知り合いでしょう」
「はい。でもどうして」
「ちょうどよかった。入ってください」
旧知の仲とでもいうような笑顔で彼は半ば強引に招き入れた。「先週越してきたんです」という言葉の通り、床に置かれているのはテレビと電話機、段ボールがふたつとその上に無造作に脱ぎ捨てたジャケット。部屋の隅には本が積み上げられ、その隣には本の一頁を額装して立て掛けてある。マチスだ。
部屋を見回している間に彼は手際よく紅茶をいれた。段ボールのひとつを真中に据えて、熱い紅茶の載ったトレイを置いて僕を見ると、もうひとつの段ボールからタオルを出して、黙って手渡した。
「どうしてわかったんですか」
「そこの、作り付けの棚の下のひきだしから、写真が出てきたんですよ」
彼は壁によりかかって座るとカップを手にした。
「前の住人の物だとは思ったんだけど、忘れていったというのも不自然だし。捨てていったんだなと思って。でも僕が勝手に処分していいのか、ちょっと迷ってたら」
「本人が現れた」
「でもそんな気がしてたから」
僕らは笑った。
「前の人の家に送ろうか、とも思ったんだけど。それもできないようだったから」
「知ってるんだ」
「いいえ」
そう言うと、彼は煙草をくわえて黙り込んだ。もう喋る気はないよ、という意思表示。僕も彼に倣った。
景色が違う。塗り替えられた真白の壁も。今は彼の部屋の顔をした景色が、僕を取り囲んでいる。玄関を振り返ると、見慣れた筈の扉さえ真新しく見えた。
紅茶の礼を言って立ち上がると、彼はひきだしから写真を取り出した。
「この写真は君の部屋で撮ったの?」
「そう」
「この本棚の二段目のこれ、ちょうど読みたいと思ってて」いたずらっぽい笑い。
「今これ、友達に貸してるんだ」僕も笑った。「戻ったら電話しようか」
そこで僕らは初めて自己紹介をし、電話番号を交換した。きみがこの部屋に残したのはとんでもないものだったと苦笑した。
偶然なのはわかっていた。
けれども、後から誰かが、必然と名付けるのかも知れない。天の配剤だとか、運命だとか呼ぶのかもしれない。僕がそれを何と呼ぶのか、まだ知らないけれど。
キャンバスの包みを抱えて、時計屋の重い扉を背中で押した。愛想のいい親父が拭き終えた眼鏡をかけなおして迎えた。僕は荷物を床に降ろし、ポケットから腕時計を取り出して見せた。
「直りますか」
「中はね、すぐ直るけど。針とガラスは代えないとね」
「そのままがいいんですけど」
「ええ?」親父は顔を上げた。
「変わってんねえ、あんた。ま、そういうこともあるだろうさ」
親父が時計を直している間、少しずつ話した。事故っちゃってね、その時壊れて。そうかい大変だったね。でも大事な時計だから変えたくないんだ。そうかい、そういうこともあるな。
右の手首に懐かしい重みが戻った。それさえすぐに忘れてしまうのだろう。そして時刻を確かめるたびに、また思い出す。忘却の川底に堆積する石のように、すべての記憶が見えなくなり、それでもそこにあるように。
僕の時間は再び動き出した。
(了)
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